大桑城下町遺跡群おおがじょうかまちいせきぐん 分布調査ぶんぷちょうさ

写真ー大桑城下町遺跡群遠望
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図ー表採遺物分布変遷(市洞椿野) 図ー表採資料からみた大桑地域の遺跡動態  大桑地域ではこれまでに、発掘を行う一方で遺跡分布調査も行ってきました。これは畑や集落内に落ちている土器・陶磁器の破片を場所ごとに拾い集め、時代別に分類・集計することにより遺跡の分布域について調べる方法で、各時代ごとの人々の生活領域(居住域・集落)のひろがりとその変化を知るのに有効です。イラストー集落の変化の図
 結果、現在も集落が立地している市場いちばから栢野かやのにかけての扇状地せんじょうちはしでは古代(古墳時代)から現代にいたるまで連続的に集落が営まれてきたことがわかりました。また市洞の谷の奥では古代(古墳・奈良・平安)にはまだほとんど人が住んでおらず、中世(鎌倉・室町)になると人が住み始め、近世(江戸)になるとまとまった集落が成立することがわかりました。この地域に暮らした祖先が、1000年以上をかけて扇状地上を開拓してきた歴史を物語っています。
表採遺物分布変遷
(市洞椿野)
大桑地域の
遺物動態
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大桑城下に都市は実在したか? 〜分布調査の成果から〜
 もし「大桑」に守護所を中心とした城下町のような「都市」が形成されていたとすれば、現在の山県市大 桑には中世の都市遺跡が埋もれていることになります。大桑城下に「都市」は存在したのでしょうか?  この疑問を解き明かすカギが、市洞地区での遺跡分布調査の成果に現れています。  分布調査の際、我々が特に注目した遺物が「かわらけ」でした。「かわらけ」とは、一言で言えば素焼き の皿類で比較的低温度で焼かれた土師質の土器です。このかわらけは、明かりを灯すための灯明皿に用いら れたほか、中世のある一定の階層の人々のあいだでは宴席や接待などの非日常的なハレの儀礼の場でまとま って消費されたと考えられる土器で、中世の一般集落ではその消費が少なく、「都市」的な空間では大量に 消費される傾向があったと考えられています。ですからかわらけが面的に落ちている区域では、その当時に そこが都市的な様子だったと理解することができます。もし大桑が都市と呼べるような景観をしていたなら 今もこのかわらけが面的に落ちているだろうと考えたわけです。  実際に、つぶさに遺物を採集していったところ、予想を裏付けるように大桑に土岐氏が活動したとされる 16世紀頃の遺物、美濃大窯の擂鉢片や皿の欠片とともにかわらけ片の面的な散布が認められました。  やはり戦国時代の大桑には、人の生活の集まりである「町」が存在していたようです。  守護の城大桑城とその城下に形成されたこの「町」は、いったいどんな姿をしていたのでしょうか?