平成11年度も城下町があったと言い伝えられている「市洞地区」での試掘調査を実施しました。
試掘調査を行った市洞地区の「ナカギリ」は、調査に先立って行った分布調査で中世の土器片などが幾つも拾われたところです。ここが城下町の一角であったと推定して試掘調査をしました。
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第4次調査地市洞「ナカギリ」 調査を行った「ナカギリ」の現場は、広い大桑城下町推定区域の中でも「外堀・四国堀・越前堀」に守られた内側で、幅約500m・長さ約2kmの市洞の谷の中ほ どに位置しています。山裾に広がる扇状地上の端に位置し、やや微高地上に立地、城下町推定区域の谷を見まわすような場所です。現場は昭和47年に土地改良事業が行われており、昔の姿とは変わっていますが、明 治時代の土地所有関係を示した絵図「字絵図(地籍図)」からは、道路で四方を囲まれた方半町(約50m四方)の区画があったことがわかっており、試掘調査をした場所はこの内部です。こうした大きな四角い形の土地 が残っているところは、館や屋敷の跡であることが中世の遺跡では特によく認められるので、城下町に伴う遺構が確認されるのではないかと予想して、この場所を調査しました。
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調査面積は200m2と狭いものでしたが、にも関わらず、面積に比して多くの遺物が出土しました。その出土遺物のなかでも特に目立った一群が、大桑城が機能していたとされる戦国時代の遺物です。以下、戦国時代の遺物のうち、破片であってもその様子がよくわかる主な物の内訳を紹介します。(いずれも破片・個体数でカウント)
・瀬戸美濃大窯製品:天目茶碗9 香炉1 擂鉢8 灯明皿3 皿24(灰釉皿など)
・かわらけ(土師器皿・完形品あり)31 ・貿易陶磁(青磁白磁染付)5
・銅銭(中国銭)2 ・五輪塔(火輪)1
このほか、室町時代の山茶碗の細片多数、江戸時代以降の瓦と陶磁器多数、時期不明の土鈴1鎹1など、合計300点あまりが出土しました。
擂鉢 かわらけ
灯明皿 香炉 天目茶碗
遺物が語る「守護の城下町」
「ナカギリ」の調査ではこれまでの調査でも毎回出土している使い 捨ての土器「かわらけ」の他、瀬戸美濃大窯製品などの「日用雑器」の類が多く出土しました。「かわらけ」は城下町に暮らした人々が宴 などを催した際に一度にまとまって消費され、一括して投棄されたものと考えられますが、擂鉢や灯明皿やその他皿類は普段の日常的な生 活で使われていたものと考えられます。 また、瀬戸美濃産の天目茶碗や香炉、中国からの白磁・染付皿も少量ですが含まれており、何か文化的な感じがします。腐食が激しくあ まりよい状態ではありませんでしたが銅銭も出土しており、貨幣が流通していたこともわかりました。 こうした出土品の内訳を見ていると、人と物が行き交ったいきいきとした生活のありさまが想像され、こ こが城下町の一角であったことを示しているようにも思えてきます。 また、出土した「かわらけ」を見ると、今回の物も京都のそれとよく似ていることがわかりました。 「かわらけ」から知ることができる京都風の文化は、15世紀後半から16世紀前葉にかけて次第に美濃の社会 に浸透・定着・拡大していったと考えられています。もちろんかわらけだけでなくたくさんの物が生活の中 で使われていたと考えるのが自然ですが、腐らずに土中に残っている物のなかでも特に文化のスタイルにつ いてよくわかる物がかわらけだというわけです。かわらけだけが京都から美濃に受容されたのではなく、か わらけを見ることによって、これ含んだ様々な道具を用いる京都の生活の様式=京都の文化そのものが受容 されていた考えられるのです。 ではこのような「かわらけから知ることができる京都の文化」を受容していたのはどんな集団だったので しょうか。それはやはり守護大名の土岐氏のような京都の将軍権力と関係する勢力だったと考えられます。 大桑城跡と大桑城下町遺跡は守護土岐氏に関連する遺跡と考えられていますが、今回の調査の出土品はそ れを裏付けるように、「都市的」な、しかも「京都風」なあり方であり、この遺跡が「守護の城下町」であ るということをあらためて物語っていると言えるかもしれません。
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「ナカギリ」の試掘調査では、戦国時代のかわらけや大窯製品の日用雑器類が多く出土し、それは城下町での生活を物語るようなものでした。これらの遺物は試掘調査の前に行った分布調査でも調査地一帯に落ちていましたが、分布調査では同様な遺物が現場周辺だけでなく大桑の市洞の谷の中に面的に落ちていることがわかっています。 ですから限られた試掘調査の成果と、市洞地区全域で行った分布調査の成果を敢えて重ね合わせて考えてみると、他の場所で試掘を行った場合も同じような様子が見て取れる可能性があり、さらに試掘調査を重ねれば、市洞の谷の中に城下町が面的に広がっていた様子を証明し、復元できるかもしれません。 戦国期城下町の様子を知る上で、今後もこの遺跡の調査には期待が持てそうです。