通称「大手」の試掘調査


■「古城山の麓に何があったか?」
 大桑に残る伝承や地名・古い記録などから、大桑城下の「町」の跡など戦国時代の美濃の国の守護土岐氏に関わる遺跡が埋もれていると予想される区域の推定範囲は、山県市大桑の市洞・栢野・市場・斧田地区にひろがり、調査によって確認されているわけではありませんが、その面積は推定で約2平方キロメートルに及ぶと考えられます。
この広大な遺跡のうち、平成10年度は、城下町があったと言い伝えられている「市洞地区」の中で、大桑城に関わる何らかの施設があったのではないかと推定される通称「大手」での試掘調査を実施しました。
試掘を行った場所が市洞地区の通称「大手」一帯は、大桑城下町の守りを固めていた「四国堀・外堀・越前堀」の跡よりも内側にあり、「大桑城」の跡がある古城山の真下で大桑城下の中でも最も守りが厳重であったろうと推定される場所です。そしてその立地や地名、江戸時代に描かれた絵図や明治時代の字絵図「地籍図」の判読などを根拠に、そこには武士の館が構えられていたのではないかと考えられていました。

居館跡推定地「大手」
図ー「大手」付近の地籍図
「大手」付近の地籍図
 市洞地区の通称「大手」は、山城の遺構が残る古城山の直下に位置しており、名の通り城との関わりが強く示唆される場所です。城下のうちでも「外堀・四国堀・越前堀」に守られた谷の内側にある市洞地区には城下の町のなかでも城との結びつきが特に濃厚な区域が展開していたと考えられますが、「大手」は三つの堀からなる防御線より更に内側の「内堀」伝承地に守られる位置にあり、城下の中で戦略上最も防御性が高かったと思われる位置に立地しています。
この「大手」を含む字「東市洞」の明治時代の土地の境界や土地の利用状況が記された字絵図(地籍図)を判読したところ、細長い土地が連続してある部分を四角く囲んでいる様子が認められました。専門家の意見も考慮に入れ、この四角い区画が方形にめぐる堀に囲まれた中世の武士の館の跡だという可能性を想定しました。
 また伝承ではこの「大手」の洞(谷)の一番奥には「法久寺」なる寺院があったといい、その下には十数軒とも三十数軒ともいう屋敷があったという口伝も聞かれました。このような伝承からは、寺院や家臣の屋敷地を伴った城主の館があったことを想像することも可能ではないでしょうか。こうした地名・立地・地籍図の判読・伝承・遺物の散布などから、この「大手」には城主の館に相当するような施設が存在していたのではないか?と思われてくるのです。


■「館をめぐる堀と戦国時代の遺構・遺物」
 謎を秘めた居館跡推定地「大手」での試掘調査の結果、幾つかのことがわかりました。 調査の過程で土層の積み重なりを検討していった結果、この遺跡には少なくとも4段階の変遷があることがわかったと同時に、この「大手」一帯では大桑城当時の戦国時代の遺構がある程度良好な状態で保存されていることが確認できました。戦国時代の遺構は少なくとも2段階の変遷があり、その後江戸時代以降に2段階の変遷があります。 調査はまず仮説に基づいて、推定される館の周囲をめぐる堀跡推定部に垂直に交わるトレンチを設定しました。堀跡が土中に埋もれているのであれば、その土層の断面から堀などの館を囲む区画があったかどうかがわかるはずだからです。 そして土層の断面を調べた結果、地籍図から予想したとおり幅3mで深さ推定1.5〜2mの堀ないし溝があったことが、判明しました。
図ー堀状遺構の断面図
堀状遺構の断面図
 この遺構は地籍図から推定された先の堀跡推定部のちょうど外側の端に沿って掘られており、この遺構の埋土には多数の土器片が含まれていました。埋土の堆積状況からは自然に堀状遺構の断面図埋まったのではなく、人為的に埋められた可能性がうかがえます。今のところ、戦国時代にあった館をめぐっていた堀の西辺の一部に当たったものと考えています。またこの堀状の遺構が埋まった後、塀や壁のようなもので館を囲っていた時期があったことを示すような遺構も確認されました。 堀状遺構などが地籍図から推定される館の区画にあたる部分で確認できたことを根拠に今のところこの場所に館があったと考えているのですが、館の内部にあたる部分では戦国時代の土坑などの遺構が幾つか見つかり、当時の遺物も出土しました。

 出土遺物からも幾つかの成果がありました。今回の試掘は調査面積こそ狭いものでしたが、にも関わらず、面積に比して多くの遺構と遺物が出土しました。その出土遺物のうちのほとんどを占めたのが、土師器の皿「かわらけ」でした。


「かわらけ」が語る館での生活
イラスト  現代の我々の生活においても様々な式典や宴会が行われるように、中世においてもそうした儀式は行われていました。現代とは違って、非日常的なハレの場をもっと強く意識していた中世の社会では、宴会や儀式の場は人間関係を今よりもずっとはっきりとさせる社会的な役割を持っていました。ちょうど結婚式の披露宴での席次や祝辞の順番が親類や会社の中での地位と関係しているようにです。当時の儀礼的な場は一種の権威を象徴するような役割も持っていたわけです。そうした儀礼的な場においては今と同じようにマナーやスタイルがあり、その儀礼のスタイルの中で使用された器がこのかわらけでした。このかわらけは素焼きの土器ですから一度食膳に供すると飲食物の汚れが残り、またもろい器のため繰り返し使用するのには不向きです。ですから使い捨ての器だったと考えられています。かわらけそのものは廉価なものでしたが、たくさん使えば出費もかさみます。
そうゆう儀礼を繰り返し催すことができる集団であれば、経済力もあったことでしょう。ですからこのかわらけが多く出土する場所は非日常的なハレの儀礼が頻繁に行われた特別な空間だった可能性がでてきます。よってこのかわらけが多く出土する遺跡は、当時の社会でも特別な地位の人々が活動の拠点としていた場所、つまり城館や寺院だった可能性が高いといえるわけです。
江戸時代の遺構
その他、江戸時代の遺構も見つかっています。館が廃絶した後の江戸時代には畑のような場所だったと思われ、肥溜めに使ったと思われる常滑焼の大甕が出土しました。さらにその後この一帯を造成したようで、赤土を固くたたきしめた地面に、柱の基礎となった礎石の痕跡と思われる多数の穴が、合わせて3群、ほぼ三尺(約1m)間隔で規則的にならんで検出されました。江戸時代の建物の柱の基礎の跡と思われます。大桑城と直接関係の無い遺構ですが、当地の江戸時代の様子を知る上で貴重な資料となったと言えます。

 この調査により、戦国時代の大桑には、山上の大桑城に伴って、麓にも何らかの機能を持つ生活の場があった(城下に戦国期の遺跡が所在している)ことがわかりました。そして、大桑城下には「城下町」といえるような遺跡がさらにひろがっているのかどうかが、新たな課題となりました。

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