16世紀前半の中頃、土岐氏の本拠地となった大桑は、当時の美濃の国の政治の中心地になったと考えられています。
土岐氏が大桑に移り住んだ時代は戦国乱世の時代でした。人々は極度の軍事的緊張にさらされていたことでしょう。それを示すように、大桑城は標高407mもある不便な高い山の上に築かれています。そして当時の不安定な世情が、大桑の城下町の構造にもあらわれていたようです。
それでは大桑城下町の構造がどんなものだったか、ほかの城下町の構造について理解した上で見てみましょう。
「枝広」のイメージ図
■「大桑」以前
まず大桑の前に守護所があった革手や福光・枝広はどんな構造だったのでしょうか。 革手、福光・枝広というそれまでの守護の城と城下町の構造は、守護の大きな四角い館を中心に、これと同じ方向を向いた四角い家臣の屋敷や寺院が散在し、このような都市が平野部の交通の要衝に立地している、という姿だったと考えられています。
■「大桑」以後
「井口」のイメージ図
次に大桑城が落城した後に美濃の国の中心都市となった井口(後の岐阜)の構造を見てみたいと思います。
井口は、町をぐるりと囲む堀と土塁がめぐらされ、内部に家臣の屋敷・寺院・町屋があり、外にも市場がある、という姿であったと考えられています。井口も革手や福光・枝広と同様、交通の要衝に立地しています。さて、それでは大桑城下町は革手や福光・枝広、井口と比べ、その構造にどんな特徴をもっていたのでしょうか。文献や絵図、地名や伝承、今も残っている遺構などから推定して、大桑城下町の構造に迫ってみましょう。
■「大桑」の様子
「市洞の大手、六谷の木戸の間出仕の諸士の鞍馬の往来駱驛たる事阿房宮にも異らず。尚も市場に至り貴となく賤と無く萬銭を用いて萬事を得たり。」
江戸時代以降に書かれた書物には、大桑城下の様子がこんな風に書かれています。
江戸時代に書かれた内容が、戦国時代の大桑の姿をどの程度言い当てているか分かりませんが、少なくとも江戸時代には大桑に城下町があったと認識されていたことが分かります。
絵図 次に右の絵図を見て下さい。これも江戸時代になってから描かれたものですが、土岐氏がいた時代の想像図ではなく、城が落城してから200年以上たった大桑の様子を客観的に記録していると思われる図です。全体を見ると、「四国堀・外堀」で城下町があったと思われる市洞地区を守り、更に内部を「越前堀」が区画している形になっています。 中世の城によく見られる防御施設である「土塁」は、堀を掘った土を城の内側に積み上げて造られるのが普通ですから、「越前堀」の市洞側(左側)に「土居」の文字が書かれているということは、市洞側に城の重要な部分、つまり武士の館や城下町があったと考えるべきでしょうか。
地名と伝承からも多くのことを推測できます。市洞地区には家老屋敷・崇福寺洞といった屋敷地名や寺院の伝承地などがあり、鍛冶屋ジョウ(チョウ)と呼ばれる場所では鉄を吹いた後の滓(鉄滓)が落ちていると地元の古老が話しています。城下には家臣の屋敷や寺院に混じって商工業者の町屋もあったのでしょうか。このほか「市洞」の南には「市場」という地名もあり、堀と土塁の外側に市場が存在していた可能性もあります。
このように、絵図や地名・伝承などからは、市洞地区に城下町が存在した可能性が見出されます。そして、そこにあった人々の生活の集合体、すなわち「都市」が、「外堀・四国堀・越前堀」などの堀と土塁によって守られていた、と考えられるわけです。
「大桑」のイメージ図
こうして見てみると、山なみを自然の壁に利用して、谷への入口を堀と土塁で締め切ってしまい、その内部に人々が生活する「都市」を造っている大桑城下町の構造は、当時の不安定な社会情勢に対応した堅固な構造であったといえます。 こうした城下の構造は近江の京極氏の上平寺城や越前の朝倉氏の一乗谷遺跡と共通するものでもあります。 興味深いことに大桑には越前との関係を思わせる要素もいくつかあります 。城下町を貫く「竹宗街道」と呼ばれる道は山を越えて越前の国まで続いていますし、越前の加勢を受けて造られたと伝わる「越前堀」の名前も、越前の朝倉氏との交流を連想させています。
戦国時代は日本の各地で、新しい政策を打ち出した戦国大名たちが活躍した時代です。美濃の土岐氏もまた、乱世の荒波に翻弄されながらも、そのなかで何かをつくりだそうとしていたのではないか、と思えてきます。
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空から見た大桑城跡と大桑城下町遺跡