大桑にいつ頃城が造られたかはよくわかりません。ですが承久の乱(1221)の以後新補地頭の逸見氏が関東から入部しているので、鎌倉時代には既に彼らが暮らした館があったのかもしれません。
室町時代になると土岐氏の庶流・大桑氏が大桑に住むようになったようです。
明応年間(1492〜1501・室町時代)になると、8代守護の土岐成頼の二男で9代守護政房の弟にあたる「定頼」という人が大桑城を改修して住み大桑氏を称したといいます。 また、この出来事を明応5年(1496)の春のことであるとする説もあります。
明応年間といえば、ちょうど美濃では守護土岐氏や守護代斎藤氏の家督争いが起きていた内乱の時代で、明応4年(1495)に船田の乱が、同5年(1496)5月には城田寺の戦いがありました。当時の内乱と大桑城が関係したかどうかはよくわかりませんが、同じ時期に守護の近親者である大桑定頼が大桑城改修を行ったという記録があるのは興味深いことです。また、大桑にある南泉寺は土岐政房による建立といわれています。
このように、15世紀の終わり頃までには、大桑は土岐氏にとって何らかの意味をもつ土地になっていたのではないかと推測されます。
守護の城と城下町が、大桑へ移転した。
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桑やがて16世紀になると、大桑は土岐氏にとって更に重要な意味を持つ土地となっていったようです。
美濃の守護所は、16世紀の初めに革手から福光へと移転し、16世紀前半の中頃には枝広(今の岐阜市の長良公園のあたり)へと移転していたことが知られています。大桑に守護が移る前は、今の岐阜市長良・福光のあたりに土岐氏の本拠地があったわけです。
そして天文4年(1535)、突然長良川の洪水が守護の館があった枝広を襲いました。 守護所・枝広館の所在とそこを洪水が襲ったという記録を裏付けるように、館の堀と思われる遺構が長良の城之内遺跡の発掘調査で確かめられており、この時の洪水によって堆積したと考えられる砂の層が堀の中を覆っていたとのことです。また砂層の中からは「大 桑」の文字が書かれた木簡(文字を書き記した木札)が出土しています。 枝広と大桑の関係を連想させる興味深い出土品です。 ともあれ、この洪水をきっかけとして、守護の所在地は枝広から大桑に移ったらしく、記録にも「御在城北山大桑村二拵、御引越候」と記されています。 これ以降、大桑が守護・土岐氏の城と城下町としての役割を果たすようになったと考えられるのです。