平成13年度は「家老屋敷」伝承地を調査しました。この「家老屋敷」伝承地は、「昔、土岐家の家老が住んでいた屋敷の跡である。」と伝えられている場所です。「地籍図」では半町(約50m)規模の方形地割が認められ、これが後世に「家老の屋敷」として認識されるに至った「何か」を示している可能性が考えられました。
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| 「家老屋敷」の伝承 「家老屋敷」伝承地には、こんな伝承が残っています。
ある時、土岐の殿様が伊勢参りを計画した。このため、家老はその準備にとりかかったが、実際に段取り を始めてみると、思いのほか多額の費用がかかることがわかった。 この時の費用の莫大なことは「三歳駒の毛ほどもかかる」(三歳になる馬の毛の本数ほども多くのお金が かかるという意味)というものだったという。 そんなわけで、土岐の殿様の伊勢参りは中止となった。 しかしことはそれだけでおさまらなかった。この決定を伊勢神宮の方が不服としたからである。 土岐の殿様の伊勢参りに備えて待っていた伊勢の神官は、大変怒って、家老の屋敷まで押し掛けた。 そして、伊勢神宮の神様から頂いた灰である「ゴジンバイ」を屋敷中にぶちまけた。 以来この因縁により、この「家老屋敷」に住まう者は、火事にあって「のだたん」(家が栄えない)のだ という。 今となってはただの迷信かもしれません。ですが、何かの理由があって、こうした伝説ができあがったの でしょう。なんだか謎めいていて、おもしろいですね。 |
方形地割が堀や塀などの「屋敷」を囲む区画の跡を示しているとすれば、方形地割に直交するトレンチを掘削することにより土層の断面にそれが現れてわかるはずです。
土層の断面を調べた結果、南側のAトレンチでは地籍図から予想したとおりの位置で、上面の幅約7m、深さ2m以上の溝または堀(溝3)があったことがわかりました。
また、この溝とは別の、地籍図の地割りとは一致しない、幅約5m、深さ約3mの溝または堀(溝2)があったことも判明しました。
北側のCトレンチでは、溝3につながる溝が地割りに一致して検出されると予想していましたが、予想に反して溝はありませんでした。かわりに、戦国時代のものと思われる柱穴、土坑、井戸などが見つかりました。
遺物はそれほど多くありませんでしたが、戦国時代のものと思われる、瀬戸美濃大窯の擂鉢や、大桑城下町遺跡では頻繁に見られるタイプのかわらけが出土しました。
実際に家老屋敷の跡だったのかどうかがわかる資料は出土しませんでした。
しかしこれまでの城下町遺跡の調査では、市洞地区の谷の中のどこを掘っても戦国時代の遺構や遺物が出土しています。今回の地点もまた戦国時代には居住区の一部だったことがわかり、城下町遺跡の広がりについて追証する結果となりました。
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